空を見上げた瞬間、笑顔を見せた直後、優しく髪を梳く 指先。

そんなものを訳も無く、でもどうしてか無性に、遠く感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

近く遠く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

緑の樹々が、トンネルのように向こう側まで続いている。光を受けて、芽吹き、ここ数日でやっと大きくなった木の葉が、瑞々しく揺れている。光を跳ね返すたびにちらちらと目に眩しいが、それよりも望美は、その光景の美しさにまず言葉を奪われた。

立ち止まったかと思うと、一瞬の後に数歩走り、くるりと振り返る。長い髪が彼女の軌跡をたどり、いつもの装束とは違った緋袴姿を、美しく、軽やかに彩っていった。

望美は、両腕を広げて笑った。

 

 

「きれい!緑色の部屋にいるみたい!」

「君に喜んでもらえて、良かった」

 

 

それに応えたのは弁慶で、口元を手で隠し、さも可笑しいとくすくす笑う。

ここは、弁慶の育った場所だ。京を散策しながら歩くうちに、どうやら比叡山のふもとまで来てしまったらしかった。せっかく来たのだから何かがしたいという望美に応え、弁慶が連れてきたのがこの場所だ。舗装も何もされていない道を挟み、天を衝くほどに高くそびえる大樹の数々。しかし道は確かにあり、そして割と広かった。これまでに多くの人が行き交った印であり、今もなお使われているということだ。

弁慶は望美に追いつくと、樹を見上げて瞳を細める。

 

 

「この路は、僕の若い頃の抜け道なんです」

「抜け道?」

「そう。ほら、以前お話したことがあったでしょう。徒党を組んで、京の街で暴れていた、と」

「あ、はい」

「その頃に、住職や先輩に見つからないよう、ここを通って下まで降りたんです。実はこれ、延暦寺までつながってるんですよ」

「へぇ。秘密の抜け道なんですね」

「ええ。でも、まだ使っている人もいるようだ」

 

 

確かに、弁慶以降に誰かが頻繁に使わなければ、これだけの幅の路を保てはしないだろう。望美のいた世界とは違って、こちらのほとんどの路は舗装などされてはいないから、ほんの数ヶ月使わなかっただけでも、ひどく草に邪魔をされてしまう。しかし草や石など障害になるものは目立っては無く、今でも誰かが通るのだろう。もしかしたら、弁慶のように都で悪さをしているのかもしれない。

その路の中ほどで、弁慶は樹の上を指差して言った。

 

 

「それはそうと、ここは紅葉も見事なんです。山全体が真っ赤に染まって、その頃にここを通れば、掌まで赤く染まるんですよ」

「えぇ、すごい!見たいなぁ」

「ぜひ、お見せしたいですね」

 

 

望美は樹を見上げ、弁慶のしたように瞳を細めた。ここが、彼の育った場所。

素直に心から出た言葉を、そのまま唇にのせる。

 

 

「今度、一緒に見に来ましょうね」

 

 

陽に透ける、赤い葉。どれほど美しいだろう。

望美の言葉にすぐに返ってくるかと思われた返答は、しかし返っては来なかった。不思議に思って、隣に立つ弁慶を見上げる。

弁慶は望美を見て微笑み、眉を下げた。

 

 

―――― 知っている。

 

 

望美は愕然と、その穏やかなだけの笑顔を見つめる。気がつきたくはなかった。

これは、『嘘』の表情だ。

嫌になる。こんなときばかり鋭くなくてもいいと、思う。微笑みに騙されて、何も知らないふりをして笑っていられればいいと。

驚くほどに嘘のうまい彼の仮面を、容易く剥ぎ取る自分が憎い。

 

 

「・・・ええ。そうですね」

 

 

瞳を細めた横顔は、光の中、あまりにも美しい。

それは切ない、『嘘』の顔だったけれども。

 

 

 

 

 

夜、縁側に出て空を見上げると、自分の世界では有り得なかったほどの星が見える。大気が澄んでいるということもあるだろうが、そもそも星の光を妨げる灯りが、この京の地上には無いのだ。

恐ろしいほどの星の数。この世界は、星座も自分の世界と似ている。

望美は単姿に上着もかけず、膝を抱えて座っていた。夜気は多少冷えるが、丸まっているおかげで寒くは無い。それでもしばらくしたら中に入らないと、さすがに風邪をひきそうだ。

息をつく。昼の陽の光の中で見た、彼の表情が忘れられずに。

彼が何を抱えているのか、それは知らない。しかし、何かを隠していることは、知っている。

 

 

―――― ねぇ、私は知ってるんだよ。

 

 

穏やかな笑顔と優しい言葉に、惑わされそうになる。彼の心を見逃してしまう。

 

 

―――― 今まで、その瞳で何を見て、その耳で何を聴いて、その心に想ってきたのか。そんなことは、知らないけど。

 

 

知っていると、繰り返し呟く。

彼は笑顔で嘘をつく。それは大方、自分を隠すためであることにも気がついている。人を傷つけるような嘘も、貶めるような嘘も、言い逃れのための嘘も、彼はつかない。ただ、自分自身を隠すためだけに嘘をつく。これまで望美が出逢った誰よりも、嘘の多い人間だった。

その嘘はすぐに嘘だとわかるけれども、決してそれを指摘させてはくれない。彼の表情が哀しさに染まるのを、見たくないがために。

 

 

―――― こんなにも、私たちは遠い。

 

 

触れるほどの近くにいたのに、遠い。

ねぇ、笑わないで、聴いて欲しい。

近くにいるのに遠く、遠くにいても、近く繋がっている。私たちは、神子と八葉だから。私の中の龍神と、貴方の手にある宝珠が、私たちを決して離してはくれない。

でも、それだけじゃ足りない。

近くにいたいと、願ってしまう。

貴方は独りで、声を殺し、心を隠し、涙も流さず、泣くんだもの。

 

滲んだ涙にたまらなくなって、望美はか細く声をあげた。

 

 

「傍に、いたい・・・」

 

 

静寂だけが、耳を衝く。

 

 

 

 

 

あの少女は、何故泣くのだろうか。己の欲望のためだけではないだろう。そんなちゃちな器ではない。

戸を開け放したままだった自分の部屋に滑り込むと、弁慶は月明かりを見上げて瞳を細めた。その光さえ、戸を閉めることで遮る。

独り、夜気の中で傍にいたいと泣いていた少女を置き去りにしたのは、今の自分では動揺を隠せないからだ。頑是無い、まだ子供とも言えるような少女にかき乱された自分がひどく落ち着かなく、情けない気分にさせる。

自分のどれほどまで、あの子供が判っているというのか。理解ではない。感じているのだ。その身の内にある龍神の力ではなく、生まれた時から持ち合わせている、厄介な鋭さで。

ほとほと呆れ果てる。何故、人のために泣ける?

暴かないで欲しい。長い時間をかけて取り繕ってきた外皮を、崩しかねない衝動が身の内に湧く。

一片、ひとひら。

丁寧に、残酷に、控えめながらも強引な手が、取り繕いという鱗を剥いでいく。痛みが無いどころかそれは時に甘美にも感じ、そのまま身をゆだねそうになってしまう。

それではいけない。それは駄目だ。まだ、楽になるには苦しみが足りない。

あの子供から ―――― 幼く愛らしい少女から、隠しおおせていると思っていた自分は、なんて甘いのだろう。彼女の思慮深さも、大人びた一面も、時に哀しみまでも飲み込もうとする無防備さを、これまでに何度も目にしてきたというのに。

贖罪の日々を彩るように、彼女は足跡をつけて歩く。土足ではなく、白く細い素足のままで、水面を走るように波紋を広げていく。

波紋が壁に突き当たり、跳ね返って彼女に返り、そして彼女はその波紋をさらに大きく跳ね返す。次第に内壁を削るように、心を外に曝すように。抗いようも無い。

その幼さと無垢が彼女の才能なのだとしたら、きっといくら彼女自身が戦場で惑ったところで、彼女を突き崩せはしないのだろう。どんな血も、どんな戦いも、どんな惨劇も、彼女を崩すには程遠い。まるで風花のように、肌に触れるだけで融けて消える。強い意志は、身を焼くほどの熱さを伴っている。

愚かしい、ただ前を見ることしか知らない子供であるはずなのに。

 

 

「・・・・・莫迦か、僕は」

 

 

呟いても、反響もしない部屋。しかし頭のうちで何度も響く、高く透き通った、少女の声。

 

 

―――― 傍に、

 

 

自嘲の笑みが、口の端に浮かぶ。

傍にいたい。

君はいつだって、叶わぬことと、本能で悟っているくせに。

ああ、

 

 

 

 

 

それを、残酷だというのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京で。

まだ弁慶が源氏を裏切ると知らないときの望美と、感じたことの無かった良心の呵責に苦しむ弁慶でした。ま、でもこの場合、『良心の呵責』というよりは、『愛する人を裏切る苦悩』でしょうか。
実は初めてイベントで出した本が、これの漫画版です。元は小説だったので、描ききれない部分が多くつらかった。

弁慶さんは嘘をつくことがうまいけれど、望美は嘘を見抜くことに長けていると、勝手にマイ設定導入。

私の中の二人のイメージはそんなんなんだけど、これに賛同してくれる人がどれだけいるのか(笑)。