僕は貴方に会うまで、まるで人形のようでした。
嬉しさに笑うことを知らず、哀しさに泣くことも教えられず、しかし憎悪に唇を噛むことも、怒りに肌が粟立つこともなく。その他の暖かく冷たい感情の全てを、僕は持ってはいませんでした。今から思えばとても不幸なことですが、僕はその不幸すら、今となっては愛しく思います。
僕の兄さん。
貴方に逢うために、僕は生まれてきた。
貴方に近づいて弟を演じたのは、純粋に、与えられた任務をこなすためです。それしか、僕が何の役にも立たない存在だったからです。ただ従いました。僕は喜びも怒りも哀しみも憎しみも知りませんでしたが、自分の存在に対する諦めは知っていたのです。僕が存在する意味を、知らず求めていたのかもしれません。
貴方にとって唯一にして絶対の存在、貴方の愛した心優しい妹を貴方は忘れ、僕を代わりに愛していました。それが貴方が犯した罪に与えられた、最も残酷で、最も優しい罰だったのです。僕はそれを、貴方が犯した罪への、当然の報いであると思っていました。それどころか、罰にしては軽いとさえ感じていました。思えば、僕は笑えてしまうほど浅はかだったのですね。
今なら僕にも理解できるのです。貴方にとって、あんなに酷な罰はないでしょう。今の僕は知っている。平穏は、幸せではないのだと――――貴方には、その平穏が責め苦ですらあったというのに。
しかし貴方の父上は、貴方に安全で優しい箱庭を与えたかったのだと思います。賢く冷静で、しかし激しい気性を持った貴方を縛りつけるには、全てを忘れさせるしかなかったに違いありません。あの方なりに、貴方を愛していたはずです。
その愛は歪んでいましたが、僕には少しだけ、貴方の父上の気持ちがわかるような気がします。僕だって、何度思ったことか。全てを放り出して、優しさと平穏の中に沈んでしまえばいいのに、と。貴方が死地に赴かなくてもいいのなら、貴方が傷つかなくてもいいのなら、僕だって同じことをしたでしょう。
もちろん、貴方はそれを是としない。わかっています。僕の優しい兄さん。何と言っても、貴方ですから。
貴方は偽りの記憶に住む僕を愛し、ありったけの幸せを僕にくれましたね。惜しみなく降り注ぐ貴方の愛が、僕にとって始めて与えられるそれが、僕に何をもたらしたか、貴方に想像出来るでしょうか。
いつでも冷たく凍えたままだった指先を、貴方はそっと暖めてくれました。
白く血の気のない肌を、綺麗だと言ってくれました。
貴方があんなにまで愛した妹に似た色の僕の髪を、まるで壊れ物に触れるような危うさで梳いてくれたことを、僕がどれほど恐ろしく、そして嬉しく思ったことか、貴方はきっと知りません。
僕にこれまで、こんな幸せをくれた人がいたでしょうか。僕をこんなに大切にしてくれた人がいたでしょうか。
兄さん、僕は、幸せでした。
貴方と過ごした一年以上もの時間、毎分、毎秒ごとに、細胞と心が蘇るようで。
罪悪感はありました。僕は本当の弟ではないのにと、貴方を嘲笑したこともあります。
でも。それでも。
貴方がかけてくれた言葉が、僕の心を目覚めさせてくれた。嬉しさに微笑むことを、哀しさに涙を流すことを、憎悪と嫉妬に苦しむことを、怒りに我を忘れることを知りました。素晴らしい記憶ばかりではありません。貴方を恨んだことも、ないとは言えないのです。僕に愛を与えるだけ与えて、そのまま放り出すのかと。それならばいっそと、貴方の時間を止めて、喉に手をかけたこともあるのです。
いつ裏切られるのかと、眠れないこともありました。貴方が独りに近づくたび、昏い喜びが胸を満たしていく。本当に独りになってしまえば、貴方は僕を捨てられなくなると思っていました。同時に、独りであることに傷ついている貴方を見ていることが、とても苦しかった。僕がいるよ。そう声をかけても、貴方はきっと寂しげに微笑むだけだと、わかっていましたから。
僕では貴方の特別にはなれないのだと、思い知って。貴方の妹は優しくて、暖かくて、だから貴方に愛されて。その彼女が貴方を打ちのめしたあの日、僕は怒りと喜びに震えました。
無邪気で高潔な善意で貴方を傷つけた彼女が腹立たしく、そうまで貴方を打ちのめすことの出来る存在であるということが憎かった。――――いえ、羨ましかった。
だからこそ、貴方を彼女から解放できると思うと、嬉しくてたまりませんでした。これでやっと、僕に目を向けてくれる。貴方は独りになる。僕が、貴方の唯一になる。涙が出るほど嬉しくて、そんなことに喜びを感じている自分への哀しさは、あえて無視しました。もうこの頃には、僕は貴方しか目に入らなくて。気がついていたでしょうか?
背の高い貴方がうなだれると、僕とちょうど視線が合うのですよ。そんなことさえ、嬉しくて。
貴方をあの愚昧な組織から逃した時――――僕の、命が尽きた時。貴方が僕を止めようとしてくれたこと、貴方が僕を惜しんでくれたこと、貴方が微笑みかけてくれたこと。その全てが、とてもとても、嬉しかった。僕はあの時、今までの死んでいたような短い一生を、一瞬で取り戻せた気がしました。
わかってください。貴方は僕の世界の、正しく、まさしく全てだったのです。
貴方にとっての、彼女がそうであったように。
彼女にとっての、貴方がそうであったように。
だから兄さん。今だからこそ、問わせてください。聞かせてください。
世界を壊し、世界を創った貴方は。
世界を憎み、世界に憎まれた貴方は。
友を裏切り、友に裏切られ、――――その手で全てを翻した、貴方は。
今、幸せですか?
幸せでしたか?
「・・・・・・たぶん、幸せだったよ」
そう言って、美しい人は微笑む。少しだけ哀しげに、少しだけ嬉しそうに。
ロロはその答えを聞いて、幼さの残る顔を綻ばせた。良かった、と呟く声は、独り言にはならない。
「僕も幸せだったよ。兄さん」
貴方のおかげで。
そう口にすると、細く美しい腕がロロに伸びて、優しく抱きしめてくれた。その腕の中で、ロロはそっと目を閉じる。
ああ、もう、恐ろしいものは何もない。世界の全てが、ここに存在している。
だから、ゆっくりと眠ろう。僕たちは満ち足りた、だからそろそろ、足を止めて。華奢な肩に背負ったものを、全て風に溶かして。足枷を外し、鎖を踏み砕き、柔らかな光の中で、ただ眠ろう。
そう願いを込めてぎゅっと抱き返すと、大好きな兄は吐息を漏らして笑った。おやすみなさい、と囁くロロに応えるようにひそめられた声が、ロロの耳朶を優しくくすぐる。
「おやすみ、ロロ」
もうどこにも行かないから、ゆっくりとお眠り。
その言葉に、ロロは幸せそうな笑みを浮かべた。
おやすみなさい、いい夢を
(Good
night,brother.)
ロロのルルーシュへの感情のベクトルは、家族愛でも、恋でも、信仰でも萌えるというか。
一人称の手紙文体が書きたかったんです。そして、最終回後にはCの世界で、ルルーシュとロロは幸せになるのです、という主張がしたくて(笑)
どうも、幸せになる、というよりは、安息を得る、という感じになっていますがご愛嬌です。